久しぶりのイタリアである。親しい友とイタリアの友人夫妻を訪ね、ローマ時代の文明とキリスト教文化を学びに行った。
ローマは地中海の海岸に面しており、かつて広大な領土を傘下に治め華やかな文明を築いた都である。
海が近いために街中までカモメが飛来してくる。
今から2000年前、日本の弥生時代に当たる頃に、現在の都市と見間違えるほどの高度な建築技術と、芸術性に富んだ建造物で埋め尽くされていたローマ。中でも世界的に有名な建造物がコロッセウムであるが、当時は白い大理石と彫刻により飾られた美しく威厳のある姿であった。
5万人を収容し、全天候製の天幕を持つドームとして作られ、地下室からは人力とはいえエレベーターで動物や健闘士が舞台へと上がる仕組みであった。
後に多くのキリスト教徒たちが惨殺された悲劇の場所としても有名であるが、イエス・キリストがもしも十字架上で死ななければ、このドームで神からの新しいメッセージを力強く語られたのかもしれない。
仮に2000年前にこれだけの文明を築き上げていたローマに、愛と平和の思想が定着していたならば、その後の世界の歴史は全く違ったものとなっていたのではなかろうか。
時代は流れ1517年。マルチン・ルターが腐敗したローマ教会に抗議し、新しい信仰のあり方を叫んでドイツのヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけた。時を同じくして、イタリアではミケランジェロが宗教改革の旗手として立っていたという史実が最近分かってきた。
確かに、彼の描いた天地創造や最後の審判の絵は、それまでの宗教絵画の様式にとらわれず、聖書の登場人物の姿が自由闊達で色鮮やかに描かれている。特に最後の審判のイエスの姿は、筋肉質でたくましい。
イエス・キリストは、悪を退け、罪を裁く力強い人類の救世主として誕生された方であることから推測するならば、ミケランジェロの描き出したイエス像は、その使命にふさわしい姿に思える。
また、同じバチカン美術館にあるラファエロの「アテネの学堂」は、ギリシャ時代の天才たちが、建設途中のバチカン宮殿の中にたむろしている様子が描かれている。
おりしも文芸復興の時代。
ローマのインテリたちは、ギリシャ時代の哲学や芸術や科学に憧れ、新たな文化文明が芽生え始めていたのである。
中世はキリスト教の最盛期であり、壮大で贅を極めた教会建設と共に、イエスの弟子たちも完全に神格化され、漁師ペテロやシモンも、大工トマスも、凛々しく威厳に満ちた聖人として大理石像で芸術的に表現されている。
ところが、弟子たちの像とは対照的に、イエス・キリスト像だけは十字架にかかった時の、目を背けたくなるほどの哀れで痛々しい姿のままである。もちろん神学的には、人類(私たち)の罪を代わりに背負って神にとりなしてくださったことになっているのだが、いったいいつまで人類は神の子に罪を背負わせ続けるのだろうか。
日本人の私には、自分の罪の重荷を背負っていただくために、どうしても手足を釘に打たれ血を流している人にすがりつく気持ちにはなれなかった。
逆に、一刻も早く十字架から下ろして差し上げなければならない、被害者の姿にしか写らなかったのだ。血を滴らせたイエス像が、教会だけではなく街のあちこちで見かけられ、私はそのたびに思わず手を合わせてイエス自身の救済を祈らざるを得なかったのであるが、これはキリスト教の信仰からは、まったく祈りが逆さまになっているとお叱りを受けるかもしれない。
2000年もの長きにわたって、十字架上のイエスを救い主として崇め信じてきたキリスト教文化圏の人々にとっては、きっと尊くありがたい神の子として、神々しい姿に見えるのだろうが、それは神学上つくられた救済観からなのか、それとも罪人である人類の切実な願いからなのか、いずれにせよ長い歴史が作り上げた西洋と東洋の信仰観からくる感覚の違いを痛切に感じた。
旅の最終日、仲間たちと共に夜のバチカン宮殿を見に行った。ライトアップされた姿には、その巨大さ故か美しさと共に威圧感をも感じられた。
中世暗黒時代の腐敗したカトリックのヒエラルキーに反発し、ルターやカルバンたちの宗教改革により、個人の自由と人権が強く主張する時代となった現代社会ではあるが、いつのまにか世界には、家庭も社会も行き過ぎた個人主義が蔓延し、秩序や調和を失って、現在は人間の尊厳性や社会倫理さえもが崩壊しつつある危機的状況だといえる。
クリスマスの名残として、バチカン宮殿の庭にはキリスト聖誕の時の場面が再現されていた。現在の混乱した世界の情勢を見るにつけ、今こそ人類には救世主が必要な時であると思わずにはおれなかった。
飛行機の窓から眺めると、闇に覆われた下界を照らす真っ赤な太陽の光が、血で贖われた希望を象徴しているかのようにも見えた。