純潔と真の芸術/「精神性の美術論」勝本義道
芸術とは何か?
芸術の価値基準は、何をもって決定されるのか?
私が芸大に通っている頃の、もっとも重大な人生のテーマでした。私の多感な青春時代、1970年代の芸術運動の動向は、今思えば最も混迷していた時代なのかもしれません。
イタリアの古典的なリアリズムから、1800年代後半にはフランスに拠点を置く印象派の画家たちの時代へと表現方法が大きく変化し、そして、1900年代初頭からキュービズム、シュールリアリズム、抽象画などを経験しながら、現代絵画へと移行してきました。
現代絵画の最盛期の芸術に対する観点は、一言でいえばコンセプチャル・アートと見ていいように思います。即ち、絵画とは何かを考え、悩み、様々な実験を繰り返した時代であったように思うのです。
コンセプチャル・アートの生みの親は、マルセル・デュシャンの作品から出発しました。彼は男性用の便器を美術館の壁に展示したのでした。当然、作品を見に来た人たちは、疑問と不快感を表しました。
「なぜこんなものが美術館に展示されてあるのだ! これが芸術なのか?」
こんなつぶやきが、あちこちから聞こえてきました。デュシャンは、その言葉を待っていたのでした。彼が人々に訴えたかったのは、「芸術とは何か?」という根本的な価値観を、もう一度問いかけたかったのです。
本当に芸術作品という名にふさわしいものが、美術館に飾られているのか? 何が真の芸術なのか?
苦悩の日々
私が大学に入学して一ヶ月ほど過ぎたある朝、キャンパスに向かって一本の線を引いたときのことです、「芸術の価値基準は何か?」という問いかけが、心の中の叫び声のようにはっきりと聞こえたのでした。
その瞬間から、私の心の中でその言葉が反復し続け、私の人生のもっとも重大な疑問となって膨れ上がっていったのでした。「芸術の価値基準は何か?」「芸術の価値基準は何か?・・・」
それまでの私は、絵を描くことが人生の至福の喜びでした。美味しい御馳走を食べることよりも、恋人をつくることよりも、絵を描くことは私の人生の中心にありました。
「あなたは、絵が恋人のようね。」と、私にひそかに心を寄せていたらしい女性から、寂しそうに言われたことがあります。今思えば、本当にそうだったのだと思います。頭の中は、ヨーロッパの画家たちの絵画で埋め尽くされていました。口から出る言葉は、あの画家の絵がどうだとか、何派の作風は面白いとか・・、そんな話題ばかりで、夜寝ていても夢で絵を描き、友と芸術論を語り合っているほどでした。
しかし、「芸術の価値基準は何か?」という声を聞いたその瞬間から、絵が描けなくなってしまったのでした。なぜならば、キャンパスに一本の線を引いたときに、「その線の価値は、何をもって決定されるのだ?」と、私の心が問いかけてくるからです。
苦しみました。夜も寝られないほどに。考えても、考えても、答えが見出せないのです。「テクニックが上手なものが芸術か? そうではない! それでは色が綺麗なものがそうか? そうではない! 個性が強いものが芸術なのか? そうではないはずだ・・・」
苦しさから逃れるために、強い酒を飲んでその疑問を忘れようとしましたが、意識を失うほどに飲んでみても、結局は朝になれば同じ悩みに襲われます。だんだんと悩みはより根本的な悩みに深入りして、そもそも人間とは何なんだ、人生とは何だ? という疑問までもが、幾重にも重なる波のように押し寄せてきました。
ある時、悶々と苦悩していた私を見て、大学の先輩から空手部に誘われました。「人間は自分の限界に挑戦した時に、何かを悟ることができる。」その一言に心が引かれて、約2年間、肉体の限界を超えるほどの練習に明け暮れました。そのお陰で、強じんな肉体と、武道の技を見につけました。しかし、芸術と人生の根本的問題に対する疑問に対しては、何の解答も得られなかったのです。
キリスト教との出会い
そのうちに、私は宗教に強い関心を持つようになりました。大学3年の夏休み、禅の本を読みあさりました。そして、禅寺へ修業に出ようと思って下宿への帰り道を歩いていた時に、キリスト教のドイツ人伝道師から声をかけられたのでした。
もともとキリスト教には興味があったので、早速、次の日から毎日のようにその教会に通って勉強を始めました。そして、ついにその教会の教えを通して、芸術の価値基準が何処にあるかを知ったのです。
その答えは「真の愛」という、ごく当たり前の解答でした。悩み苦しんでいる時に何度も、人生や芸術の価値は真実の愛にあるのではないかとも考えたのですが、心が深く悟りきれなかったのです。
人間は、ごく当たり前の言葉でも、その言葉の持つ本当の意味を深く悟るには時間がかかるもののようです。私は、キリスト教の教えの中から、人間の人生の目的は真の愛を完成し、幸福を実現することにあるということを、はっきりと確信することができました。
長いあいだ探し続けた答えを知ることができたその瞬間、私はどんなに嬉しかったことか、目が開け、全ての幸福を勝ち取ったかのようでした。
「人間の人生の目的が真の愛を完成することにあるのならば、その人間の最高の美を表現する芸術は、同じく、真実の愛によらなければ表現することができない!」私の心は、歓喜の叫びを上げました。
愛のないところには喜びもなく、幸福感もありません。美は愛という光に対して影のようなものです。愛の光が強いほどに、美も強いものとして現れるのです。美は愛によって生み出されるものだからです。自然が美しいのは、神が愛で全てを創造されたからに他なりません。
美を感じることのできる繊細な心は、愛の育った度合いによるのです。愛が感じられない人は、美を感じることはとても困難です。愛によって美は存在しているのです。
真実の愛
それでは、真実の愛とはいったい如何なるものでしょうか? それは無限に与える愛のことをいうのです。親が子供を愛する愛は無限に与え、与えて忘れる愛です。報酬を望まない愛であり、犠牲をも犠牲と感じず、喜びとして感じることができる思いが、真実の愛なのです。キリスト教神学でいうところの、アガペーの愛です。
それに反して偽りの愛とはどのようなものでしょうか? それは、利己的な愛。全てに優先して自分を中心とした動機。利己的な愛は、幸福を生み出すことが絶対にできないのです。
自己中心的な動機をもった偽りの愛は、共存を妨げ分裂を招きます。全ての秩序を崩壊させる力です。そこには、悲しみと絶望があるだけです。そのような世界には美は存在できないのです。恐怖と暗闇があるのみです。
自然の全ての存在物、小さなものから大きなものまで、全ての生物はより全体のために存在しています。原子も分子も植物も、単体だけで存在しているのではありません。必ず他者との関連性の中に存在しているのです。共に助け合って存在しているのです。
したがって、真実の愛とは、他者のために生き、他者の幸福を願って存在する自分の心の中の動機だと見るのです。そこに人生の目的があり、幸福が実現されるのです。
芸術の価値は、真実の愛があるところにのみ存在します。幸福を与えるところに、芸術作品としての価値があるからです。愛と美は、ちょうど仲の良い夫婦のようなもので、どちらか一方が欠けるということは有り得ないのです。欠けた瞬間に、両者共に存在できなくなるのです。真実の愛は、完全に共存している両者の中に存在しているものなのです。
純潔な人格が真の芸術を生む
私は、真の芸術は、真の人間の純潔な精神性、真実の愛を育んだ人格から生み出されるのだと思います。純潔は、心に汚れなく清らかのことをいいます。ですから、真の芸術は、純潔の中から生まれてくるのです。私は、真の芸術の価値をそのように受け取りました。
そのためには、芸術家自身が純潔な精神を育み、常に純潔を保たなければならないと考えています。真実の愛によって形成された純潔な人格から、真実の美が生まれ出るのだと思います。真実の美が放つ愛の光こそが、芸術の価値を決定するものではないでしょうか。
私は、きっといつの日か、本物の芸術作品を描いてみたいと思っています。そのために、真実な生き方を心がけています。自然の花々が汚れなき美しさをもっているように、私も汚れなき純粋な愛を表現できる画家になってみたいのです。