イタリアのアッシジに行くと、そこにはボロボロになった一着の服が展示してありました。それは、聖フランシスコが着ていた服です。
フランシスコは、青年時代は放蕩三昧をしていたそうですが、一篇の聖句に出会ったときからイエス様の弟子になりたいと熱望し、全てを捨てて出家しました。ほんとうに全てを捨てたのです。自分が着ていた服までも脱ぎ捨てて、裸になって神の前に出て行きました。そして、首に「自分は罪人である」と書いた紙をぶら下げて、叫ぶように罪を告白して歩いたのでした。きっと、罪を隠しては神様の前に出られないと思ったからなのでしょう。
次の日から、托鉢をしながら生活をしなければならなくなりました。一軒一軒ドアをたたきながら「神様の祝福がありますように。」とお祈りを捧げて、そのお礼に食べ物をもらいました。
一軒目の家で、鉢の中にパンをもらいました。二件目の家では、残り物の野菜をもらいました。三軒目の家では、またまた残り物のスープを入れてもらいました。四件目の家に行ったときは、焼いた魚の切り身が入れられました。煮豆や生卵、オリーブ油にジュースが混ざり、その上にチーズの粉が振りかけられたら、なんとも不思議な匂いが漂いました。
ありがたくもらった食べ物でしたが、フランシスコは口に入れたとたん吐き出してしまいました。気持ち悪くて食べることができません。残飯ばかりを集めたそれは、とても食べられるようなものではなかったのです。
しかし、それでもフランシスコは感謝して、神様に祈りを捧げた時に、神の愛に満たされて涙があふれ出てきたのでした。万物は神様の愛によって創られたのです。人間に食べられることを喜びとして、人間を生かすことをその目的として創られたのです。小さな生き物が持つ愛は、より大きな生き物の中に吸収され、神様から一番多くの愛が与えられた人間の中で結実するのです。そして、人間の愛はより大きく素晴らしい愛として、全てのものに分け与えられるのです。
フランシスコは、人間は自分だけで生きているのではなく、神様の愛によって生かされているのであり、自然がその身を削って生かしてくれているということが分かったのでした。
もう一度、鉢の中の食べ物を見たときに、それは光が放たれたように輝き、その香りはかぐわしく、喜びの歌声すら聞こえてくるようでした。
「平和を願う祈り」
神よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛を
いさかいのあるところに、ゆるしを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
神よ、わたしに、慰められるよりも慰めることを
理解されるよりも、理解することを
愛されるよりも、愛することを望ませてください。
自分を捨てて初めて自分を見いだし、
ゆるしてこそゆるされ、
死ぬことによってのみ、永遠のいのちによみがえることを
深く悟らせてください。
聖・フランシスコ
この世ではボロボロの服を着ていた人であっても、天国に入る心の服は白く輝いていた。私も、たとえこの世の人から見えなくても、心の服を白く輝く立派な服にしなければならないと思っています。